知りたい!の源

京大卒の塾講師が感じた様々な事を書くブログ

勉強=感覚を盗むこと。

勉強を暗記だと思っている人がいます。

もちろん、多少の暗記は必要ですが、勉強の本質ではありません。

勉強の本質は、他人の感覚を盗むことです。

例えば、数学でマイナスの数が出てきた時を思い出してください。 教科書では、マイナスの数も今までの正の数と同じ様に、足し算や掛け算などが出来る普通の数扱いをしています。 しかし、羊の数を数えるのには使えない数なので、普通の数として使うためにはそれを普通の数だと思えるまで、感覚を刷り込む必要があります。

また、高校で二次関数が出てきた時、二次関数はVの字のような、放物線と呼ばれる形をしたグラフをイメージする事で、かなりの問題を理解することができます。

こういった考え方は、元はといえば昔の偉人たちが会得した特殊な感覚です。 その感覚を後世の人間、つまり私たちが学んでいるのです。

勉強以外で感覚を理解する場面といえば、言葉を学ぶ時が最もわかりやすいと思います。

一昔前、マジ卍という言葉が突如として現れました。 こんな日本語が存在するのか!と衝撃を覚えたとともに、一体、どういう場面でどの様に使われるのか?と大変興味をそそられたのを思い出します。 しかし、マジ卍の文法的解釈を教えてくれ!と彼らに聞いても、なんの意味もないのは明白でした。 そこに明確な文法があるわけでも、何か既存の言葉に完全に入れ替えられる訳でもありません。 新しい言葉には新しい感覚があるからです。 その感覚を掴まないままでは、痛いおじさんが若者の真似をしているような、不自然な卍の使い方になってしまいます。

勉強も同じです。 昔の賢い人たちが作り出し、今の賢い人たちがもつ、独特の感覚をつかみ、自分のものとする。 これこそが、勉強そのものです。

普段から、他人の感覚を想像し、相手の立場に立って考える訓練を自然としている人は、勉強の時も偉人たちの感覚を比較的楽につかむ事ができます。 ふだん、他人の感覚を想像することが少なく、自分の感覚を変えようとした事がない人は、勉強において大変苦労します。

ここのところ、勉強ができるかどうかはその人の世界観や人生観をそのまま反映しているのではないか、という理論にたどり着きかけています。

「他人と自分は違う人間であり、人それぞれ違う感覚を持っているのが自然」という感覚です。

感覚が違うのが当たり前だから、自分の感覚にを中心にしつつも、他人の感覚に興味を持ち、推測し、理解し、良いと思えば自分に取り込み、じぶんの感覚になるまで実践を繰り返す。

逆に、他人と自分の考えは同じでないといけないから、反発する人を全て敵とみなし、攻撃し、感覚を押し付ける。 もしくは、自分の感覚を蔑ろにし、真に正しい人を見つけたと思ったら盲目的に崇拝する。

これらは、すべて世界観の違いから来ている様に思います。